三沢光晴(1962-2009)

これを書いているのは6月18日(木)です。三沢選手の死を知ったのは13日の深夜。現実感のないまま仮眠して、胸に空いた穴に冷たい風が吹き込んできて目が覚めました。

自分は元々からっぽの紙袋で、学んだことや経験でそれを少しずつ満たしてきましたが、三沢選手は袋の中に少なくないスリルや興奮、楽しみや喜びを放り込んでくれたプロレスラーでした。その三沢選手がいなくなってしまうのはとても寂しいし残念です。でも、その死を悼み、悲しむよりも、その人生を祝い、感謝したいと思います。本当にありがとうございました。

三沢選手のファイトはテレビや会場で何度となく見てきましたが、直接お話を出来たのは1回だけ、上野のおかまバーで行われた超世代軍の飲み会でのことでした。僕が一瞬だけ務めていた会社の先輩OLさんが全日本プロレスのファンで、後楽園ホールのボックスシートを購入したりして何度も連れていかれて、その延長線上で何だか連れていかれたのですが、緊張していたし何を話したかもあまり覚えていません。「渡邊さん(=仮面シュータースーパーライダー)に稽古をつけてもらったことがあります」と僕が言ったら、渡邊氏と高校レスリング部の同学年だった三沢選手は「ぶっちゃけ彼は練習だと強いんだけどねー」と語っていました。

デビューしたかしていないかの泉田選手がトイレットペーパーをふんどしにして登場、三沢選手がそれに水をかけていたのを覚えています。

何を書いても安っぽくセンチになってしまいそうなので、このへんで。

ルーブル美術館展が最終日なので、とにかく朝起きて上野に向かいました。「150分待ち」というプラカードを見て、そんな待てないよと、国立科学博物館の『大恐竜展 知られざる南半球の支配者』へ。不勉強なせいか、知らない恐竜ばかりでした。

昼ごはんはかに道楽で食べましたが、店員に「三沢選手、残念ですね」と声をかけられました。昼ごはん中ずっと三沢選手の話をしていたせいか、それともWWEのTシャツを着ていたせいか。

それから改めてルーブル展へ。日本テレビが主催・後援金の一部でもノアに割いてくれたら…と悲しかったですが、内容はとても充実していました。

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yamazaki666

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