一部で話題のプロレス本。少し前に読んだのですが、自分なりに咀嚼するのにちょっと時間がかかりました。
ウィレム・ルスカ戦、モハメド・アリ戦、パク・ソンナン戦、アクラム・ペールワン戦という、アントニオ猪木のキャリアの中でも特異な位置を占める4試合が行われた1976年に焦点を絞っています。
良くも悪くもプロレスマスコミというのは妄想の部分が大きく、故I編集長などは「言うちゃ悪いけど試合なんぞ見なくてもレポートは書ける!」と断言するほどでしたが、本書は「取材をする」「引用文献を明記する」など、これまでになかったジャーナリスティックなアプローチで当時の背景に迫っています。というか、”ジャーナリズム”では当たり前のことなのですが。
わざわざアメリカ、韓国、オランダ、パキスタンまで取材に赴き、当事者の生の声はスリリングで、知られざる事実が次々と明るみに出てきます。
ただ、プロレスで”ジャーナリズム”が通用しないのは、当事者の談話が真実とは限らないこと。
新間寿や佐山聡の談話はその場によってコロコロ変わるので、本人がそう語っているからといって信頼できるとは限りません。
猪木本人に取材が出来なかったことを「唯一残念だった」と書いていますが、それが実現したとしても、猪木は誰よりも発言がアテにならない人なので、さほど中身は変わらなかったでしょう。
著者もそれを判った上で、論旨を自分の言いたい方向に持っていくために利用しているフシがあります。
“打・投・極”は1980年代には”打撃・スープレックス・関節技”ときわめてプロレス的なものだったのに対し、”打撃・テイクダウン・関節技”とすり替えていたり、アリを妙に人格者に仕立て上げたり。
また、「プロレスは脚本のあるショーである」と再度にわたって述べているのはどんなものでしょうか。
そりゃまぁ”ジャーナリズム”においてはプロレスは八百長なんでしょうけど、猪木のプロレスにはそんなものを超越したロマンとドラマがありました。
著者もわざわざ外国に行ってまで取材するほどなんだから、かつてそのロマンとドラマに心酔し、「プロレスなんて八百長だよ」という世間の声に半泣きになって反論した一人だったのだと思います。違うのかな。1960年生まれの、猪木の最盛期を見ている世代なんだし。
そんなロマンとドラマを”ジャーナリズム”に売り払った著者は、すごく薄汚れて見えますよ。興味の尽きないエピソード満載なだけに、ちょっと悲しくなりました。
あと図版が少なすぎ。本書のネタは『Number』誌にも載って、その際にはけっこう写真が載っていたように記憶していますが、せっかく取材したんだから、関係者たちの今の姿や、ボロ・ブラザーズの末裔の練習場の写真も収録して欲しかったです。
この本を読了して判ったのは、アントニオ猪木という人物がショー・プロレスラーなのに、なぜかアリに対してだけ無理矢理真剣勝負を仕掛けた不思議な人だということ。猪木という名のミステリーがさらに深まる結果となりました。
底が丸見えの底無し沼をかき混ぜてみたら、底が見えなくなった。ジャーナリズムを超えたところにプロレスはあるという思いを新たにしました。