Brant Bjork Interview 2010.2.18




KYUSSとFU MANCHUという、ストーナー・ロック最重要2バンドのドラマーとして知られ、ソロ・アーティストとしても活躍してきたブラント・ビョークのインタビューです。
2010年3月、C.J.ラモーンが来日公演を行いましたが、彼をバックアップするメンバーがダニエル・レイ(後期RAMONESや再結成MISFITSなどのプロデューサーとして有名)、そしてブラントという豪華なものでした。
このインタビューは2月18日のライヴ前、高円寺HIGHのバックステージで行ったものです。
主にKYUSSでの活動、そしてカリフォルニア・デザートの砂塵に隠された、知られざるデザート・ロック・シーンについて語ってもらいました。

なお、本文中に出てくるCalifornia Desertのdesertは日本語で"砂漠"と訳することが多いですが、実際のカリフォルニア・デザートは砂よりも土の"土漠"に近いものなので、ここでは便宜上"デザート"と表記しておきます。

(インタビュー:山崎智之/uploaded 2010.4.14)
(感謝:RAMONES F.C. JAPAN SPACEWALK TO THE COMET




●今回C.J.ラモーンのツアーに参加することになったきっかけは?
C.J.と知り合ったのはRAMONESの最後のツアーの年だから1996年かな、ジョシュ・ホーミが紹介してくれたんだ。あの年、ジョシュはSCREAMING TREESのツアー・ギタリストとしてLollapaloozaツアーに同行していて、そのツアーにRAMONESも参加していた。その頃からC.J.と「いつか一緒にバンドをやろう」と話してたけど15年近く経って、ようやく実現したわけだ。

●あなたの生い立ちについて教えて下さい。
1973年3月19日、カリフォルニア・デザートの生まれだよ。デザート近くのマキンタって小さな町のはずれで、1930年代に建てられた、小さなスパニッシュ・スタイルの家屋に育った。近所に家屋がなくて、たまに蛇が出てきて…特に何もない場所だ。空が広くて、夏はとてつもなく暑かった。それから1977年頃、5マイルほど離れたパーム・デザートに引っ越したんだ。そこも大都市ではなくて、遊び場も少ないから、音楽やスポーツ、スケートボードぐらいしかすることがなかった。そうして10歳だか11歳のとき、ニック・オリヴェリと出会った。彼とは同じ中学校だったんだ。当時の彼はまだ髪の毛があった。それからちょっと後にジョシュ・ホーミと知り合った。ジョシュは別の学校に通っていたけど、ハイスクールで一緒になったんだ。ジョン・ガルシアも同じハイスクールだった。1987年頃、俺とニック、それからクリス・コックレルでバンドを始めたんだ。それにジョシュが加わって、KYUSSの前身バンドであるKATZENJAMMERが生まれた。

●どんな音楽を聴いて育ちましたか?
うちの親父は50年代育ちだったんでレイ・チャールズとかジェリー・リー・ルイス、エルヴィス・プレスリー、チャビー・チェッカーを家で聴いていた。それから年上の友達が聴いている音楽を耳にするようになった。パーム・デザートは住宅地でこそなかったけど、あちこちの家庭に子供がいたんで、友達が出来たんだ。俺が遊んでいた友達はみんな年上で、彼らの聴いていた音楽でロックを知ったんだよ。KISS、QUEEN、THE KINKS、THE ROLLING STONES…そんなある日、RAMONESを発見したんだよ。それまでロックは友達が聴いている音楽だったけど、RAMONESをきっかけに積極的にロックを聴くようになって、いろんなバンドのレコードを買って、自分でもバンドをやる気になったんだ。

●カリフォルニア・デザートで伝説となっている"ジェネレーター・パーティー"シーンについて教えて下さい。
カリフォルニア・デザートではジミ・ヘンドリックスもBLACK SABBATHもプレイしたことがあったけど、それはきちんとしたライヴ会場でのことだった。ジェネレーター・パーティーは60年代後半から、地元のヒッピー達が始めたんだ。デザートにミュージシャン達が集まって、フォーク・ソングを歌ったりしたらしい。それから警察の立ち入りなどが理由で、しばらく下火になっていたけど、俺のちょっと上の世代が1983年から84年頃に再開させたんだ。そのゴッドファーザー的存在がマリオ・ラーリだった。彼は発電機をバンに積んでデザートのヌーディスト・コロニー跡地に持っていき、フライヤーを撒き、俺たちの世代のジェネレーター・パーティーを生み出したんだ。”ジェネレーター・パーティー”というものが世に知られるようになったのは、彼のおかげだよ。俺が参加するようになったのはしばらく後、1985年頃だった。俺より少し年齢層が上のキッズが、パンク・ロックに合わせて首を振ったり走ったり、とにかくワイルドだったよ。近くに民家がないからバンドもとてつもなくでかい音を出して、もう凄かった。デザート周辺にはパンク・バンドがプレイするクラブなんてなかったから、ジェネレーター・パーティーは遠征できない若手バンドがプレイして腕を磨くことが出来る唯一の場所だったんだ。

●そうして”デザート・ロック”シーンが形成されていったのですね。
“デザート・ロック”というのは決して特定の音楽スタイルを指すのではなく、俺たちがジェネレーター・パーティーでプレイしていたパンク・ロックを表現する名前だったんだ。ニューヨークやボストン、ワシントンDC、ロサンゼルスとも異なる、俺たちのパンク・ロックがデザート・ロックだった。俺もマリオのバンに発電機を積むのを手伝って、自分のバンドでライヴをやったり、仲間のバンドがプレイするのを見ながら一晩中マリファナをふかしたり、最高に楽しい時期だったよ。

●当時マリオ・ラーリはACROSS THE RIVERでプレイしていたのですか?
うん、マリオは80年代初め、いろんなパンク・バンドでプレイしていたけど、ひとつまたひとつと消滅していき、最後に残ったのがACROSS THE RIVERだった。彼らは世界最高の”知られざるロック・バンド”だった。クレイジーで、時代を先取りしたバンドだったよ。BLACK FLAGがMOUNTAINとBLACK SABBATHと融合したようなサウンドを、グランジが出てくるより昔からやっていたんだ。BLACK FLAGのメンバー達もACROSS THE RIVERには一目置いていた。凄い!ってね。ACROSS THE RIVERがアルバムを出さずに解散したのは、残念でならないよ!
俺がマリオと初めて会ったのは13、4歳のとき、TODAYというバンドでパーム・スプリングスのAdrian’sというナイトクラブでライヴをやった時だった。ACROSS THE RIVERが解散したばかりで、彼はINGLENOOKというバンドをやっていた。彼は既に俺の中では”伝説”だったよ。

●そのTODAYというのはどういうバンドだったのですか?
ただのパンク・バンドだよ。トリオ編成で、俺がドラムスで、年上のギターとベースがいた。なかなか良いバンドだったと思う。マリオに気に入ってもらって、何度も彼のバンドの前座をやったんだ。そうしてマリオはゲイリー・アーシーやアルフレド・ヘルナンデス達とYAWNING MANを結成した。

●KYUSSがジェネレーター・パーティーでプレイするライヴ映像を見たことがあります(1993.5.18 / Indio Hills, Palm Springs)。ステージはなく、バンドが演奏する周囲をキッズが取り囲むというスタイルでしたが、ジェネレーター・パーティーはどれもあんな感じだったのですか?
一言でジェネレーター・パーティーといっても、峡谷やヌーディスト・コロニー跡地など、何箇所かでやっていたんだ。警察に嗅ぎ付けられると別の場所に移ったり…ステージもあったりなかったりだった。

●80年代半ば当時、カリフォルニア・デザートで目立っていたバンドといえば?
まず第一にYAWNING MAN。それからUNSOUNDというバンドがいた。彼らは比較的ストレートなパンク・バンドだった。それからNIGHTHOUSEとか、メタル・バンドのENRAGEとか…あまりに昔の話だから、他にもいろいろいたバンドを忘れてしまっているだろうけど、良いバンドがたくさんいたよ。ジェネレーター・パーティーを一言で表現することが不可能なのと同じように、単一の”デザート・サウンド”というものはないんだ。KYUSSとFATSO JETSON、YAWNING MANはデザート出身だけど、どれもまったく異なったサウンドだろ?確かにマリオはデザート・ロックの重鎮だったし、カルチャーへの貢献度は高かったけど、誰もが彼のスタイルを模倣しようとしたわけではなかった。YAWNING MANは多くのバンドからリスペクトされていたけど、ゲイリー・アーシーのギター・スタイルはかなりエキセントリックでほとんどアヴァンギャルドなものだったし、後続のギタリストはまた異なったアプローチを志していたよ。カリフォルニア・デザートは広大だけど、音楽シーンの規模は小さいから、他のバンドと同じことをしたって意味がない。デザート・ロックとは、それぞれのバンドの独自の個性を指す言葉だったんだ。

●国家権力がジェネレーター・パーティーに介入することは多かったのですか?
しょっちゅうだった。俺も2、3回捕まったことがあるよ。まあ大麻所持とか、可愛らしい罪状だったけどね。世界をツアーして回るようになると、生涯一度もマリファナを経験しない文化の人々がいることに気付くけど、デザート周辺では、マリファナは日常の一部だった。誰もが吸っていたし俺自身、13歳の頃から吸っていた。

●KYUSSの前身バンドKATZENJAMMERについて教えて下さい。
KATZENJAMMERは俺とクリス・コックレル、ニック・オリヴェリ、ジョシュ・ホーミ、ジョン・ガルシアで結成したバンドだった。1年ぐらいデザート周辺でライヴをやったけど、ニックはバンドを脱退して、バンドはSONS OF KYUSSと名前を変えたんだ。このバンドが面白かったのは、メンバー全員の趣味が異なることだった。ニックはメタル・ファンだったし、クリスと俺はクラシック・ロックとパンク好きだった。ジョシュはパンクは好きだけどメタルやクラシック・ロックは好きじゃなかった。ジョンはZZ TOPやモータウンのシンガーを聴いていた。全員に共通しているのは、パンクが好きだということだけだった。80年代末のパンク・シーンはグランジ前夜で、過渡期の静けさだった。でも、そんな時期だからこそ面白いバンドがいくつも出てきたんだ。ZODIAC MINDWARP & THE LOVE REACTIONとかCIRCUS OF POWER、それからDANZIGのファーストは凄く良かった。

●アメリカ人がZODIAC MINDWARPの名前を口にするのを初めて聞きます。
うん、メインストリームのチャートやMTVとは無縁の音楽だったからね。デザート周辺では他にすることがないから、音楽に対してマニアックなリスナーが多いんだ。すごく真剣に音楽に向き合っている人が多い。でも、俺が一番強い影響を受けたのは、やはりYAWNING MANだろうな。俺の友達の兄貴ですごくマリファナ好きな奴がいて、超強力なのを吸わせてもらったとき、YAWNING MANのライヴを見て「こいつは凄い!」とショックを受けた。本当にとてつもない衝撃だったんだ。

●『SONS OF KYUSS』のレコーディングについて教えて下さい。
最初は「7”シングルを作ろう」って話だったんだ。それで資金をかき集めて、友達の元ミュージシャンだった父親の知り合いがやっているスタジオを週末借りて3曲デモを録った。それから数日後、女性から電話がかかってきて、「先週末デモを録ったバンドのドラマーはあなた?」って。彼女はキャサリン・エニーという人で「マネージャーはいるの?」と訊いてくるから「いや、俺たちはデザートのガキですし」と答えた。それで彼女はマネージャーになってくれると言って、残りは歴史が示すとおりだ。キャサリンは俺たちをデザートから連れ出して、アルバムを録音して、レコード会社との契約を取りはからってくれた。そうしてサンディエゴやロサンゼルスでライヴをやるようになって、一歩ずつ階段を上っていったんだ。

  SONS OF KYUSS『SONS OF KYUSS』


●当時カリフォルニア・デザートと他の地域の間に、カルチャーの交流はありましたか?
うん、KYUSSは他の都市でライヴをやるようになったし、カリフォルニア各地のスケーターがデザートに来ることもあった。何もない荒れ地で、スケートする場所がいくらでもあるからね。だから都市部のスケーターからスケーティングの聖地、みたいな感じで、デザートは敬意を持たれていたんだ。俺たちはただの砂漠の田舎者だったから、都市部に対して一種の劣等感を持っていたのにね。

●以前(2003年1月)ニック・オリヴェリにインタビューしたとき、「グランジがブームになった時、シアトルの次はデザートが来る!と期待したけど、結局ブームは来なかった」と言っていましたが、あなたもそう期待しましたか?
いや、別に期待しなかった。シアトルは大都市だし、ブームの基盤となる人口が多くて、バンドの数もネットワークもあるけど、デザートは人口も少ないし、バンドの数もさほどなかったからね。事実KYUSSがメジャーのElektraと契約した後も、後続のバンドは現れなかった。俺たち以外のバンドがダメだったというつもりはないけど、あまりにシーンとして小規模かつバラバラで、ブームにはなり得なかっただろう。それに何よりも、当時KYUSSでやっている頃は、自分たちのことで精一杯だったし、ブームだとかムーヴメントだなんて頭の中にはなかったんだ。

●UNKLEや元HOLE〜THE SMASHING PUMPKINSのメリッサ・オフ・ダ・マーなどはわざわざデザート・ロックの総本山であるジョシュア・トゥリーのRancho De La Lunaスタジオでレコーディングを行いましたが、彼らが求めてやってきたデザート・ロック・サウンドとはどんなものだと思いますか?
それは彼らに訊いてみないと判らないなあ。俺は自分が住んでいた地域だから、客観視することが出来ないんだ。

●SONS OF KYUSSがKYUSSとバンドが名乗るようになって、あなたは『WRETCH』(1991)、『BLUES FOR THE RED SUN』(1992)、『WELCOME TO SKY VALLEY』(1994)でプレイしていますが、それはどんな経験でしたか?
とにかくクレイジーな時期だった。次の日にどんなことが起こるかも判らず、日々を生きて音楽をプレイするしかなかった。毎日がスリルの連続だったよ。

●『WRETCH』はどんなアルバムでしたか?
『WRETCH』はKATZENJAMMERとSONS OF KYUSS時代にライヴでやっていた曲を集めた、一種のコンピレーション・アルバムだった。俺たちはアルバムを出すのはまだ早いと考えていたけど、最初のレーベルDali Recordsが「人々にバンドの音楽を知ってもらうためには、まずアルバムを出すべきだ」と主張して、レコーディングすることになったんだ。俺たちはまだ若かったし、とりあえずアドバイスを聞くしかなかった。結果として、悪いアルバムではないし、出して良かったんじゃないかな。「HWY 74」はお気に入りの曲だよ。パンクでもなければメタルでもない。『WRETCH』みたいな音を出すバンドは、未だに聴いたことがないよ。
とにかくまず『WRETCH』を出しさえすれば、本当にやりたいことをやれると思ったしね。それが『BLUES FOR THE RED SUN』だったんだ。

  KYUSS『WRETCH』


●『BLUES FOR THE RED SUN』は?
俺にとっては『BLUES FOR THE RED SUN』こそがKYUSSの真の姿なんだ。まだ若かったし、荒削りな部分は残っているけど、それがむしろプラスに働いている。すごくイノセンスを感じる作品だよ。ミックスを終えて完成させて、パーティーしながらアルバムを聴き返したときのことを覚えている。自分たちの作り上げたものに畏怖を感じたのは、あれが最初で最後だ。クレイジーな気分だった。中でも一番気に入っているのは「Allen’s Wrench」かな。あれはスペシャルな曲だよ。

  KYUSS『BLUES FOR THE RED SUN』


●『BLUES FOR THE RED SUN』も傑作ですが、『WELCOME TO THE SKY VALLEY』は僕の中ではKYUSSの最高傑作であり、歴史的名盤です!
うん、『SKY VALLEY』もクールなアルバムだよ。自分たちがどんな音楽をやろうとしているか、方向性が見えてきた作品で、それを意識して作り込んでいる。だからトータルな完成度からすると『BLUES FOR THE RED SUN』よりこちらの方が高いだろう。「Whitewater」はプレイしていて楽しい曲だったよ。俺にとっては『BLUES FOR THE RED SUN』の方が青春の思い出として輝いているけどね。2枚とも参加したことを誇りにしているアルバムだ。

  KYUSS『WELCOME TO SKY VALLEY』


●KYUSSはアメリカだけでなくヨーロッパ、イギリスで高く評価を受け、『BLUES FOR THE RED SUN』は英『Kerrang!』誌の年間ベスト3位、『WELCOME TO SKY VALLEY』は1994年の年間ベスト7位に選ばれています。それなのに何故KYUSSを脱退したのですか?
当時の俺は、成功に向けて常に背中を押される状態を理解できなかった。KYUSSが特別なバンドだという意識はあったけど、周囲からプレッシャーをかけられて、金儲けのマシーンにさせられようとする気がしたんだ。「早く次のアルバムを作らないと」と言われても、俺たちの音楽はスピリチュアルなもので、工場みたいに音楽を作ることは出来ない。結局それで一足先にバンドを抜けることにしたんだ。他のメンバー達はまだ俺ほどのプレッシャーを感じていなかったのか、アルフレド・ヘルナンデスを入れて『…AND THE CIRCUS LEAVES TOWN』(1995)を作ったけど、それからまもなくバンドは解散することになった。

●90年代の終わり、KYUSSが”ストーナー・ロックの神”として祭り上げられた状況について、どう感じましたか?
悪い気はしなかったし、嬉しかったよ。もうバンドが存在しない状況で人気が再燃したのは、ちょっと驚いたけどね。まあ、RAMONESだって既に解散しているけど、常に若いバンドが彼らから影響を受けている。俺たちがRAMONESと同格と言うつもりはないけど、KYUSSは比類のない特別なバンドだと思うし、過去のバンドから影響を受けるのはおかしなことではないよ。俺たちだっていろんなバンドから影響されてきたし、マリオやゲイリーだってBLACK FLAGやMINUTEMEN、LAWNDALEのようなSST Recordsのバンドから影響を受けている。

●実際、初期FATSO JETSONのアルバムはSSTからリリースされていましたよね。カリフォルニア・デザートではSSTはどのように見られていましたか?
REDD KROSSのマクドナルド兄弟がどこかで言っていたけど、SSTは一種のカルト宗教だった。マリオやゲイリーは熱狂的な信者だったよ。だから彼らが憧れのSSTでアルバムを出すようになったのは、夢が叶ったようだった。俺は代表的なバンドは好きだったけど、レーベル単位で好きということはなかったかな。

●SAINT VITUSもSSTからアルバムを出していましたね。
うん、SAINT VITUSにワイノが加入して初めてやったライヴは、パーム・デザートだったと記憶している。1986年、SAINT VITUSとACROSS THE RIVER、D.R.I.というラインアップだった筈だよ。残念ながら俺はまだ年がいってなくて、見に行けなかったけどね。

●KYUSSが再評価されたこと、そしてジョシュがQUEENS OF THE STONE AGEで成功を収めたことで、KYUSS再結成のオファーが何度も舞い込んできたと思いますが...。
いや、俺のところには一度も来たことがないよ。再結成のオファーは、いつもジョシュのところに来るんだ(苦笑)。実際のところ、俺たち4人が同じ席について再結成を相談したことは一度もないんだ。ジョンとは今年の初めに会ったけど、特にKYUSSの話題は出なかった。

●ジョン・ガルシアがKYUSSの曲を歌うソロ・ツアーが行われますが(2010年春)、あなたにドラマーになって欲しいと頼んでこなかったのですか?
いや、全然。近況とか家族の話とかで、仕事の話はしなかったよ。もし頼まれたとしても自分のツアーのスケジュールが入っているから、出来なかったかも知れない。実際やりたいかというと、何とも言えないな。昔の仲間ともう一度やってみたら楽しいかも知れないし...単に後戻りするだけだったら、やる意味はないけどね。まあ、具体的なオファーがあったら考えてみるさ。

●KYUSSの元メンバー達は、今でもデザート近辺に住んでいるのですか?
俺とジョンは近所に住んでいるし、スコット・リーダーやアルフレド・ヘルナンデスもデザート周辺に住んでいるよ。みんなツアーに出ていたり仕事があったりで、なかなか顔を合わせる機会はないけどね。ジョシュはLAに住んでいるけど、デザートにも家がある筈だ。

●スコット・リーダーと以前(1999年5月)話したときはペットショップをやっていましたが、今でもやっているのですか?
いや、もう何年も前に閉店したよ。今ではパーム・スプリングス郊外のカバゾンって小さな町で、奥さんと一緒に馬を育てている。スコットは昔から動物好きだったんだ。

●話を戻して、あなたはKYUSSから脱退した後、どうしていたのですか?
一時FATSO JETSONのサポート・ギタリストをやって、レコーディングにも参加した(FU MANCHUとのスプリット7”「Blueberries & Chrome」)。それから少しの間LABでもギターを弾いていたよ。一応自分にとってはフルタイムのバンドだったし、ライヴもやっていた。約1年間、LABでやったかな。

●LABのベーシスト(デイヴ・ディンズモア)は後にジョン・ガルシアのUNIDAに加入したんですよね。
うん、デザートでは誰もがみんな顔見知りなんだよ。デイヴは俺がCHE名義で出したアルバム『SOUNDS OF LIBERATION』(00)でもプレイしているよ。LABの他のメンバー、ギターのマイク・ニーダーとドラムスのビル・トーガスンはかつて SSTからレコードを出していたパンク・バンド、BL’ASTでやっていたんだ。彼らの出身地のサンタクルスはサンフランシスコの南にある小さなサーフィン・タウンで、デザートとは仲間意識があった。それで俺もLABでやることにしたんだ。

●FU MANCHUとはどのようにして知り合ったのですか?
ハイスクールの頃の友達でミシェルっていう娘がいて、兄貴がビーチ沿いに住んでたんだ。ある週末、彼のビーチ・パーティーに招かれたことがあった。そのときスコット・ヒルとルーベン・ロマノに初めて会ったんだ。1990年頃かな、ちょうど彼らがVIRULENCEからFU MANCHUに改名した頃だよ。それからKYUSSとFU MANCHUで何度もライヴをやったし、親しくなったんだ。
FU MANCHUからルーベン・ロマノが抜けたというんで、俺に声がかかったんだ。スコット・ヒルは良い奴だし、やることにした。彼らと作った『THE ACTION IS GO』(97)と『KING OF THE ROAD』(99)、それから『CALIFORNIA CROSSING』(01)はクールなアルバムだ。FU MANCHUで初めて日本に来たのも、いい思い出だよ(2000年4月)。

  FU MANCHU『KING OF THE ROAD』


●KYUSSのマネージャーだったキャサリン・エニーはFU MANCHUもマネージメントしていましたよね?
うん、俺が紹介したんだ。当初彼女はあまりFU MANCHUの音楽を気に入っていなかったけど、1年ぐらいして、彼らの持つポテンシャルに気付いて契約した。

●FU MANCHUを脱退したのは何故ですか?
自分の音楽をやりたかったからだ。あの頃、既にソロの『JALAMANTA』(1999)やCHEの『SOUNDS OF LIBERATION』を出していたし、自分が経営するレーベルDuna Recordsも始めていた。それをもっと追求したかったんだ。

●その2枚のアルバムを出したMan’s Ruin Recordsは2002年に閉鎖しましたが、ちゃんとギャラをもらいましたか?
少しだけもらった。でもすぐに倒産してしまったから、全額はもらえなかったよ。数千ドルをもらい損ねた。フランク・コジックは良い人だし、俺ともウマがあったけど、レーベルの経理面に問題があったんだ。それぞれのリリースはそれなりに売れていたけど、そのせいで倒産することになったんだよ。

●『JALAMANTA』はMan’s Ruin盤とDuna Records盤でジャケットが異なりますが、どちらを気にいっていますか?
うーん、どちらも気に入っているよ。確かMan’s Ruinのオリジナル・アートワークが見つからなくて、裏ジャケットを表に持ってきたんだ。だからといってオリジナルに劣るというわけではなく、どちらも好きだ。

●それからBRANT BJORK & THE OPERATORS、BRANT BJORK & THE BROS名義でソロ・キャリアを続けてきたわけですが、今後の活動を含めて教えて下さい。
俺は常にセールスを気にせず、自分の信じる音楽をやってきた。今年(2010年)春からはバンド名義は止めて、ソロとしてやっていくんだ。バンドを名乗っても、結局やっているのは俺自身の音楽だからね。一番新しいアルバム『GODS & GODDESSES』(2010)もソロ名義で出すよ。俺が70年代に聴いていた音楽に通じる、ストレートなロック・アルバムだ。DEEP PURPLE『IN ROCK』『WHO DO WE THINK WE ARE?』やBLACK SABBATH『PARANOID』、LED ZEPPELIN『IV』、KISS『DESTROYER』みたいな、LPレコードのA面に4曲、B面に4曲みたいな構成でね。もうソロとして10年やってきて、アメリカやヨーロッパ、オーストラリアでツアーもやってきたし、いずれ日本でもライヴをやりたいと思っているんだ。

 BRANT BJORK『GODS & GODDESSES』



home